料理店のモラルと哲学(船場吉兆事件に思う) 2008年5月31日
毎月末は「手付かずの哲学」の日です。
料理店の使い回しについて哲学してみます。
食べ物、それも外食を中心にブログを発信している者として、この度の船場吉兆の騒ぎは無視するわけにもいかないので少し踏み込んで考察してみようと思う。
船場吉兆は、私が勤務する大阪市中央区の会社の直ぐ近所にある老舗料亭だ。
大阪勤務になって十数年になるが、幸か不幸か一度も訪れた事は無い。いつも黒塗りの高級車が横付けされていて一見がフラリと入れるような雰囲気ではなかった。
船場吉兆 2008.5.30.12:00 撮影

その吉兆の調理場で、客を侮(あなど)る人間の心にひそむおごりたかぶりへの傾きが蔓延(はびこ)っていたのだろうか。
『グルメや食通を気取る客の舌も味覚も実はたいしたことはない、うちのような名店なら喜んで散財する、だから残り料理は使い回しすればいい、アユもアワビも天ぷらも調理し直せば分からない』・・・・・料亭「船場吉兆」はそう考えたのだろうか。
接待の宴席などで、比較的食事に手をつけない接待側の客に使い回しの料理を出していたというから、確信犯的で悪質だ。
元従業員は先輩の調理人から『使えるものはすべて使え』と指示され、残った料理を選り分けていたと証言しているそうだ。

食品衛生法は、腐敗などで健康を損なう恐れがある食品を販売することを禁じているが、使い回しに関する規定はないという。
厚生労働省は「品質が保たれていれば法律には抵触しない。あくまでもモラルの問題」と指摘しているそうだが、法律に触れなければなにをやっても構わないという風潮が蔓延するのは情けない話である。
料理人のモラルや哲学が無くなれば、単なる調理ロボットだ。数万円もする料金を払った客は、完全にみくびられたことになる。
常連客もこうまで見下されていたのが分かっては、さすがに足は遠のく。使い回し発覚以来の売り上げ激減という客離れで、とうとう店は廃業へと追い込まれた。
2~3日前の記者会見で「断腸の思いです」と大粒の涙を落とした船場吉兆・湯木佐知子社長の言葉にうそはないだろう。だが今それをいうなら牛肉産地偽装問題が騒がれたときに、一切を自ら公表すべきであったろう。世間の厳しい目をあなどり、再生の道を閉ざしてしまったのは自業自得と言わざるをえない。
要は料理店として、或いは料理人としての確固たる哲学が欠如していたということだろう。
船場吉兆にあったのは、「銭儲けの哲学」だけだったのかも知れない。

船場吉兆は廃業となったが、周囲にはビジネスマンや買い物客目当ての飲食店が軒を連ねている。過当競争とも言うべき飲食業界で生き残るためには、味の工夫やサービスは勿論なによりも料理店が心がけなければならないのは、客の信頼と安心感を得ることではないだろうか。
(記事と写真は関係ありません)


反論があるかも分からないがあえて言うなら、料理店においては高級店であれ、大衆店であれ、使い回しは常識かも知れない。
刺身の舟盛のツマ、パセリ、クレソン、大葉、それに定食屋で出される刻んだお新香等、お飾り的で客が殆んど手をつけないものについては、使い回しをしている店は決して少なくないと思われる。
だから、私はこれらの類を外食に関しては、決して口にしない主義を昔から通している。
真面目に料理に取り組まれているお店には大変失礼だが、客にもそれなりの哲学や考え方があることを飲食店関係者は肝に銘じていただきたい。

食の楽しさや豊かさを人々に提供するすべてのお店は、客をあなどり、見下ろす姿勢とは無縁であって欲しいし、料理の哲学を持って食文化の発展に取り組んでもらいたいものだ。
by mahalotakashi | 2008-05-31 00:01 | mahalo@哲学






















