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公平・不公平とは・・・             2007年8月31日

月末恒例の「手付かずの哲学」ご一緒に哲学しましょうか・・
今月のテーマは、公平と不公平についてです。





例によって辞書を開いて見よう。
【公平】こうへい  「すべてのものを同じように扱うこと」とある。「判断や処理などが、片寄って(偏って)いないこと」とも書いてある。
【不公平】は、「公平でないこと」「片寄りがあること」・・当たり前の事が書かれている。
もう少し詳しく調べると、「不平等」「片手落ち」「依怙贔屓・えこひいき」とある。

 「公平か不公平か」これは最もポピュラーな哲学の題材である。いわば哲学の入門編のようなものだ。
他の題材、例えば「人間はなぜ生きるのか?」などは、哲学に限定されること無く物理学や人類学、生物学、自然科学、歴史学、考古学、医学の分野まで広げることが可能だ。

 その点、「公平か不公平か」は前置詞が付かない限り、分類が困難だ。
「裁判は公平だったか」であれば法律司法、税金や年金或いは各種保証制度について論じれば政治学、経済学か、それぞれの前置詞次第で裾野は広がる。

 ここは簡単に、「個人における公平不公平」から、話を進めてみよう。
このブログを訪問できる能力のある人で、生まれてこのかた『自分は不公平な扱いを受けたことは無いし、不公平な扱いをした覚えも無い』という御仁がいればぜひコメントをいただきたい。多分ユネスコあたりから「希少絶滅種ホモサピエンス」として一生の生活は保護されるだろう、ただし精神科医と科学者の監視の下で。

d0083265_2285864.jpg 人類(動植物を含む)は、生まれる瞬間から「公平・不公平」の狭間に翻弄される。鷲や鷹などの猛禽類は一度に2個以上の卵を産むが、生き残る雛は1羽と言うのが定説だ。親鳥は元気に口を大きく開く雛に餌を与え続ける、弱々しい子供には見向きもしない。そして元気な雛が成長を続ける、これが自然の掟だ。この場合決して親鳥は責められない、元気で大きく口を開く雛の嘴(くちばし)には、ある種のシグナル(マーク)があり、親鳥は本能に従って餌を与えるのである。

 人間に戻ってみよう。マイブログでもお馴染みだが、私には2人の可愛い孫がいる。どちらも愛しい、命が懸けられる掛け替えの無い存在だ。
 2人が自宅へ来る時や、どこかで逢う時は必ず同じようなお土産やプレゼントの品を用意する。差別をしないよう大変気を使う、公平に公平にと。

 しかし彼女たちがこの世に生を受けた時、公平な扱いだったか・・というと、いささか疑問を生じる。私にとって生涯初めての孫、即ち初孫にあたる長女が生まれる前後は、ハッキリ言って舞い上がってしまった。

d0083265_21153717.jpg 自分がオジイチャンと呼ばれる存在になることへの複雑な心境。我が子が子供を授かるという、嬉しいような恥ずかしいような気持ち、全てが初めて尽くしだから無理も無いが、いよいよ対面する初孫のために日常生活が大きく変化した。

 無事誕生してからも、どれだけの贈り物をしただろうか、会社の帰り道にベビー用品のお店に何の抵抗も無く入っていったことも、幾度かある。

 究極は、初孫が一歳半になった時に、お祝いとしてハワイまで連れていったことだろう。
10日間の旅行中片時も孫のそばを離れた事は無い。永年連れ添った女房が焼きもちを焼くぐらいベタベタと戯れた。
 プリクラ写真を何にでも張り付けるギャルのように、定期入れ、眼鏡ケース、カバン、会社のデスク、パソコンの壁紙、ありとあらゆるものに初孫の笑顔が張り付いた。体形や性格しぐさに少しでも似通ったところを見つけるたびに、体が熱くなるほど愛おしさを感じた。世間ではコレを爺馬鹿(ジジバカ)と言うのだろう。


d0083265_21563958.jpg 初孫の誕生から3年後、二人目の孫娘が生まれた。
勿論喜ばしいことだ、家族が増えるという事は人生の励みにもなるし、生きる気力を与えてくれる。当然誕生の日は産婦人科に駆けつけた。だが、何か違う、初孫の時の「ドキドキ感」と「不安感」が無かった。

 孫達の父親である私の長男から電話で知らせを聞いた時も、初回の感覚とは全く違っていた「そうかそうか・・良かった良かった」・・長男は恐らく『親父やけに冷静だなあ』と感じたかもしれない。

 これを「慣れ」或いは「経験」から来る「落ち着き」と分析すれば、簡単な話なのだが、生まれてきた2人目の孫娘の立場になって考えてみると「じいちゃん!不公平よ!」となるのではなかろうか。

 一般的に考えてもこのような「悪意の無い不公平」は、さまざまなケースで見受けられる。
最近はさほど著しくは無いだろうが、下の子供へ「兄・姉」のお下がりと称して引き継がれる洋服やランドセル、それにおもちゃ等。弟や妹から見れば「絶対不公平!」であろう。 


 少しばかりこじ付けみたいな話になるが、世の中には結構「不公平」がまかり通っているケースが少なくない。税制度にしろ司法や法務、或いは医療の現場においても、様々な不公平な行為や決まりが、まかり通っている。

 ここであまり堅苦しい議論や評論をする気は毛頭無いので、話を変えよう。
時々感じるのだけれど、電車の停車駅。
地下鉄などは全駅に全車輌が停車するので問題ないが、特急や急行それに快速、通勤急行や区間特急とか言って、停車駅を限定してダイヤを組んでいるが、アレって不公平のサンプルみたいに思えるのだけど、どうだろう・・・

 勿論各私鉄やJRにいちゃもんをつける気など毛頭ないが、哲学的に考えてみると、各駅のホームで電車を待つ乗客の心理状態に興味が湧く。
朝夕のラッシュ時、大量の乗客をスムーズにしかも安全に(合理的に)運ぶ為、途中の駅を通過する特急や急行電車の必要性は当然のこととして受忍できる。全列車が各駅停車になってしまったら、日本国中特に大都会では大変な混乱を招くだろう。

 だから、各鉄道会社において検討に検討を加えた列車ダイヤには、感心もするし敬意を表する。しかしなお、そのダイヤで各駅停車の列車しか止まらない駅の周辺に暮らす人の心理が知りたいのだ。幸いと言うか偶然というか、私の暮らす場所の駅はいわゆる「ターミナルステーション」とか言う駅で、全列車が停車する。支線も2本有り始発電車も多数有る。

 特急電車に乗ると、次のターミナル駅まで4つの駅を通過する。その内の1つの駅では先発の各駅停車の電車が、満員の乗客を乗せたまま特急の通過待ちをしている。
特急電車の窓越しにホームで待つ乗客の顔が一瞬だけど、目の前を飛んで行く。
いらついた顔や、怒りの顔など一切無い、皆無表情だ。(当たり前の話だけど)

 朝、自宅を出て最寄の駅のホームに立つ。目的の普通電車はなかなか来ない、目の前を猛スピードで通過して行く「特急電車」続いて「急行」「快速」「通勤特急」「通勤急行」「区間特急」等々・・・やっと到着した普通電車は超満員のすし詰め状態。それでも乗客は黙々と肩口から自分の身体を押し込んで行く。

 その瞬間「これは、不公平だ!」と感じる人間が一人でもいるのだろうか、それが知りたい、とても興味がある。 


          

by mahalotakashi | 2007-08-31 00:01 | mahalo@哲学