なんとかなるさ:mahalo@哲学
2008-10-07T11:38:36+09:00
mahalotakashi
料理はアートだ!
Excite Blog
俳優緒方拳さんの訃報に接して。
http://mahalotaka.exblog.jp/8727904/
2008-10-07T11:27:00+09:00
2008-10-07T11:38:36+09:00
2008-10-07T11:28:25+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
<毎日新聞ニュース>より転載
「楢山節考」「鬼畜」など数多くの映画やドラマで活躍した俳優の緒形拳(おがた・けん、本名・明伸=あきのぶ)さんが死去していたことが6日、分かった。71歳だった。関係者によると、最近になって体調を崩したという。死因などは明らかになっていない。
緒形さんは東京都出身。先月30日には、倉本聰さん(73)脚本の連続ドラマ「風のガーデン」の制作発表に出席し、元気な姿を見せていた。
緒形さんは58年、劇団「新国劇」に入団。60年に「遠い一つの道」で初主演し、映画デビューした。新国劇退団後は活動の場を広げ、映画やドラマなどで活躍。83年の映画「楢山節考」でブルーリボン賞を受賞した。長男幹太さん、次男直人さんも俳優。
◇ブログに最近も元気な姿を掲載
緒形さん本人の公式ブログは9月30日までほぼ毎日更新され、同日付のブログでは今月9日にフジテレビで放映開始予定のドラマについてに触れていた。「連続ドラマ『風のガーデン』全て撮影が終了しました。本日、記者会見です」とした上で「是非是非ご覧下さい」と結んでいる。
また、ブログでは9月下旬に食事中の写真なども掲載され、最近まで健在な姿を見せていた。
今朝のテレビニュースで訃報に接したのだが、アナウンサーの「ブログ・・・」と言う言葉に思わず真剣に見入った。
この時期有名人の訃報は結構多く、いつもそれなりの感慨と思い出を持って時代の変化などを感じるのだが、今回は少し気になった。
毎日食べ物ブログを更新し続けているイボイノシシと緒方氏がオーバーラップしたわけである。
イボイノシシより10歳年上だが、同じ趣味を持たれてPCに向う偉大な俳優に特別な親近感を感じた、同時に彼がどのようなポリシーでブログ更新を続けられたのか、大いに興味が湧いた。
翻って、自分自身が現在何を求めて日々PCに向き合っているのか、という、今までさほど真剣に考えなかった内なる未知の意識・・と言うようなものを分析してみたくなった。
「人は絶えず誰かとコミュニュケーションを取っていなければ生きられない動物」
とか、様々な理屈と自分と家族への言い訳、或いは現実逃避、さらにはナルシズム・・
まあ、そのような「おまけ的意識」をも楽しみながら、精神と思考のバロメーターとして、それこそ死の直前まで続けたい、と常々考えていたのだが、緒方拳さんは美事に実践されたわけである。
改めてご冥福を祈る。 偉大なる先輩に・・・
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料理店のモラルと哲学(船場吉兆事件に思う) 2008年5月31日
http://mahalotaka.exblog.jp/8001764/
2008-05-31T00:01:00+09:00
2008-05-31T00:00:59+09:00
2008-05-30T09:51:19+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
料理店の使い回しについて哲学してみます。
食べ物、それも外食を中心にブログを発信している者として、この度の船場吉兆の騒ぎは無視するわけにもいかないので少し踏み込んで考察してみようと思う。
船場吉兆は、私が勤務する大阪市中央区の会社の直ぐ近所にある老舗料亭だ。
大阪勤務になって十数年になるが、幸か不幸か一度も訪れた事は無い。いつも黒塗りの高級車が横付けされていて一見がフラリと入れるような雰囲気ではなかった。
船場吉兆 2008.5.30.12:00 撮影
その吉兆の調理場で、客を侮(あなど)る人間の心にひそむおごりたかぶりへの傾きが蔓延(はびこ)っていたのだろうか。
『グルメや食通を気取る客の舌も味覚も実はたいしたことはない、うちのような名店なら喜んで散財する、だから残り料理は使い回しすればいい、アユもアワビも天ぷらも調理し直せば分からない』・・・・・料亭「船場吉兆」はそう考えたのだろうか。
接待の宴席などで、比較的食事に手をつけない接待側の客に使い回しの料理を出していたというから、確信犯的で悪質だ。
元従業員は先輩の調理人から『使えるものはすべて使え』と指示され、残った料理を選り分けていたと証言しているそうだ。
食品衛生法は、腐敗などで健康を損なう恐れがある食品を販売することを禁じているが、使い回しに関する規定はないという。
厚生労働省は「品質が保たれていれば法律には抵触しない。あくまでもモラルの問題」と指摘しているそうだが、法律に触れなければなにをやっても構わないという風潮が蔓延するのは情けない話である。
料理人のモラルや哲学が無くなれば、単なる調理ロボットだ。数万円もする料金を払った客は、完全にみくびられたことになる。
常連客もこうまで見下されていたのが分かっては、さすがに足は遠のく。使い回し発覚以来の売り上げ激減という客離れで、とうとう店は廃業へと追い込まれた。
2~3日前の記者会見で「断腸の思いです」と大粒の涙を落とした船場吉兆・湯木佐知子社長の言葉にうそはないだろう。だが今それをいうなら牛肉産地偽装問題が騒がれたときに、一切を自ら公表すべきであったろう。世間の厳しい目をあなどり、再生の道を閉ざしてしまったのは自業自得と言わざるをえない。
要は料理店として、或いは料理人としての確固たる哲学が欠如していたということだろう。
船場吉兆にあったのは、「銭儲けの哲学」だけだったのかも知れない。
船場吉兆は廃業となったが、周囲にはビジネスマンや買い物客目当ての飲食店が軒を連ねている。過当競争とも言うべき飲食業界で生き残るためには、味の工夫やサービスは勿論なによりも料理店が心がけなければならないのは、客の信頼と安心感を得ることではないだろうか。
(記事と写真は関係ありません)
反論があるかも分からないがあえて言うなら、料理店においては高級店であれ、大衆店であれ、使い回しは常識かも知れない。
刺身の舟盛のツマ、パセリ、クレソン、大葉、それに定食屋で出される刻んだお新香等、お飾り的で客が殆んど手をつけないものについては、使い回しをしている店は決して少なくないと思われる。
だから、私はこれらの類を外食に関しては、決して口にしない主義を昔から通している。
真面目に料理に取り組まれているお店には大変失礼だが、客にもそれなりの哲学や考え方があることを飲食店関係者は肝に銘じていただきたい。
食の楽しさや豊かさを人々に提供するすべてのお店は、客をあなどり、見下ろす姿勢とは無縁であって欲しいし、料理の哲学を持って食文化の発展に取り組んでもらいたいものだ。
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イタリア旅行・ローマの光と影を哲学してみよう。 2008年4月30日
http://mahalotaka.exblog.jp/7794427/
2008-04-30T18:30:00+09:00
2008-07-16T15:26:34+09:00
2008-04-28T13:51:11+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
今回妻と2人で訪れたイタリア共和国。僅か1週間程度の短い時間でローマ、ミラノ、フィレンツェと、いずれも観光の代表的な街の一部を垣間見たに過ぎないが、其々の都市に捨てがたい魅力と繁栄、歴史の重みを感じると同時に首をかしげるような風景やモラルの違いにも気付いた。
勿論長年の夢であった旅行であり、大きなトラブルも無く、最高の満足感と充実感を持って日本に帰国したわけで、何の不満も失望感もない。
予想通りのイタリアであり、日本では味わえない料理の数々や人々の暖かさにも接してきて、益々イタリアという国が好きになってきたので、文句をいったり批評をしたりする気はサラサラない。
今日は「日本」に、或いは「日本人」に比べて・・・という視点から、イタリアの光と影を哲学してみようという趣向である。決してイタリアを侮辱したり日本を自慢するものでは無いので、くれぐれも誤解の無いように願いたい。
短い期間で表面的な状況や偶然の出会いを持ってこの国や人々の生き様を論ずるのは、無謀であり、浅はかでもあることは十分理解しているつもりである。
あくまでも一瞬にして過ぎ去った一旅行者個人の感じた潜在的比較論にすぎない。
公衆道徳
辞書を見ると、「社会生活を営む一人一人が守るべき規範」とある。
そもそもイタリアに道徳なる言葉や概念が存在するのかが不明であるが、それなりの
モラルや決め事は当然存在している。
ただそれが日本に比べると微妙な「ずれ」を感じさせるものであることは、間違いない。
喫煙
イタリア人は男女を問わず喫煙愛好家が多いようである。
イタリアの禁煙場所・喫煙場所はいたってシンプルだ、室内はダメ!室外はOK!
(注)一応駅構内など、禁煙場所は指定表示されている。
乗り物も室内とみなされるようだ、しかし鉄道の駅やバスの停留所付近はポイ捨ての
タバコの吸殻が溢れ返るように散乱している。
歩きタバコは常識のようで、半数ぐらいの人がタバコを咥えたり指に挟んで歩行している。
石造りの建物や石畳の歩道で、引火の心配がないからなのか歩道や広場はタバコの吸殻が晩秋の落ち葉のように広がっている。
昨今特定の通りや区域を禁煙地区に指定して、違反者から罰則金を没収する条例が増えてきた日本の各都市に比べれば、ローマなどはタバコ好きの天国であろう。
トイレ
世界屈指の観光都市であるローマやフィレンツェに公衆便所がほとんど無いのには
驚愕した。
駅などに有料のトイレはあるが、この旅行中、日本で見かける公衆トイレと言う物に一度も遭遇しなかった。
街角の料理店(リストランテ・トラットリア・バール)に備え付けのトイレはあるが、どこもお世辞にも綺麗とは言えない代物だ。
妻は一度だけそこそこ格式のあるリストランテ(ローマ)で用を足したが、『トイレット
ペーパーも無かったわ!』と、憤慨していた。
旅行者は観光の出発前にホテルの部屋で用を済ませ、外では料理店などを利用する
しか手立てはないようだ。
落書き
建物や壁などへのイタズラ書きは、日本でも物議をかもしているが、イタリアもかなりひどい状況のようだ。ローマやフィレンツェなど歴史的価値の重要な建造物にも、かなりの落書きが見受けられた。地元の人間なのか観光客なのかは定かではないが、無知で幼稚な落書きは心を冷え冷えとさせる。
物乞い
特に目に付いたのはローマであった。
教会の出入り口には必ず座っていた、年老いた老人や老婆が空き缶を持ちか細い声で
「スィニョール・・・スィニョーラ・・・お恵みを・・・」と呟く姿は哀れみを感じさせる。
社会の表舞台から取り残された一部の人たちではあるが、アメリカにも他のヨーロッパ
諸国にも見られる風景だ、社会格差なのか労働政策や福祉政策に欠点や落とし穴が
あるのか、それとも個人個人の生き様なのか、影の部分である事は間違いない。
果たして、2000年前のローマや古代ローマに物乞いは存在していたのだろうか、
繁栄と挫折の繰り返しなのか、或いは現代社会の病める病根なのか。
その他にローマの治安の悪さや、景気後退、移民問題などイタリアにも影の部分は少
なくないようだ。
光を求めたイタリア人
私がローマに到着した前々日の14日にイタリア上下院総選挙が実施された。
旅行に出る前から情報は入れていたが、ローマの街角にはまだ候補者の選挙ポスター
があちらこちらに残されていた。
ホテルのテレビには、前首相のシルヴィオ・ベルルスコーニの得意満面の顔が映し
出されていたのでどうやら彼が勝利したらしいことは理解できた。
その後ロシアのプーチン大統領を訪問した映像が毎日のように報道されていた。
結局イタリアの上下両院総選挙は15日に開票の結果、両院でベルルスコーニ前首相
率いる「自由国民」を軸とする中道右派が、ワルテル・ベルトローニ前ローマ市長率いる
「民主党」を中心とする中道左派陣営を大きく引き離して圧勝した。
これにより、ベルルスコーニ氏が3度目の首相として、景気後退などに苦しむイタリアの
かじ取りを担うことになるのだろう。
イタリア人は危うさを感じながらも、ベルルスコーニに賭けてみたのだろうか、光を求めて。
イタリアは上院が下院と同党の権限を持つため、上院で小差だったプローディ左派中道
政権は上院での不信任案可決で崩壊したが、ベルルスコーニ新政権はその点、安定した
政権運営を保証されたことになる。
参院選挙で議席を減らした日本の自民党福田政権からみれば羨ましい限りだろう。
話が哲学から逸れて現実的になってしまったが、イタリアの「光 」と「繁栄」それに
ラテン民族特有の明るさ陽気さ、そして、もてなしの心など、このページでは語り尽くせな
いイタリアの魅力は、引き続き私のイタリア旅行記を読んでもらえば、十分に理解してい
ただけるものと信じている。
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手付かずの哲学(何を求めるのか) 2008年3月31日
http://mahalotaka.exblog.jp/7589302/
2008-03-31T01:01:00+09:00
2008-03-31T01:03:48+09:00
2008-03-29T05:59:13+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
織田信長公が発信元といわれる「起きて半畳 寝て一畳 天下奪(と)ても二合半」
私の好きなフレーズで、事あるたびに密かに呟(つぶや)く呪文でもあり、マイブログ
「なんとかなるさ」の原点ともなっている言葉(思考)のひとつでもあります。
北浜から本町へ哲学しながら散歩しました。
さて、信長公の言葉の意味ですが、人間はどんなに豪華で広い屋敷に住んでいても、起きている時は畳半畳のスペース、寝ていても一畳あれば充分。
それ以上はどう頑張っても使えない。
そして、天下を取り頂点に登りつめても一回の食事で米2合半以上は食べられない。
必要以上のものを望まず、満足を知ることが大切である。 という戒めの意味です。
自分自身の生き様を把握して、客観的に見つめる重要さを教えてくれる言葉でしょう。
地球環境を救う心の余裕
昔の人は、人間に必要なものは働ける空間、眠れる空間があれば、余計なものは不要、というより邪魔になる、という思想を持っている人が多かったようです。
以上でもなく以下でもない必要なもの、即ち「分相応」が確保されていれば、それで十分満足だったようで、これを「知足(足るを知る)」の哲学という学者もいます。
現代人のように分不相応のものを求めるようなことはしなかった。
分不相応なものを求めればそこには必ず無理が生じる。無理が生じれば、当然のことに、成るものも成らない。
無理とはなんでしょう、無理とは自分の思慮を超えた欲求、計画、行動ということです。
思慮が浅ければ、総てにおいて無理ばかりとなり成就は覚束ないという結論になります。
昔はよかったと一概には、言えないが・・
地球環境の悪化に関しては、昔の環境を取り戻すべきではないでしょうか。
現代人は無理を重ねて地球を滅ぼそうとしているのかも知れません。
幕末に活躍した勝海舟が「人間、余裕なかりせば、大事、成らず」と著書「氷川情話」の中で述べています。
この言葉は核心を突いています。「余裕がない」とはギリギリということであり。このギリギリという状況が何事にも悪い影響と結果を生じます。
なにごとも器の容量以上には入らないし、無理に入れようとすれば器が壊れます。
社会的にも、無理が環境や状況を悪化させていることは多いものです。
100年200年前の昔からは想像も出来ない発展を遂げた現代、医学の進歩により人々の寿命は驚異的に延び、科学技術は暮らしを清潔にしかも四季を通じて快適な環境を与えてくれます。
情報は瞬時に世界を駆け巡り、人間が月にまで到達する時代、100年前の人間の夢の夢とまで言える驚異的な社会を作り上げました。
同時に地球温暖化を背負ってしまいました。
世界各国が温暖化防止に躍起となっている昨今、消費することや様々な行動が制約される雰囲気が芽生え始めています。
それはそれでよい事かも知れませんが、個々の人間が罪悪感や自虐感を持つような、あるいは持たせるようなネガティブキャンペーンだけは止めてもらいたいと思います。
個々の人間には生きる権利と同時に生活をエンジョイする権利があってしかるべきなのですから、短い人生を有意義に楽しく暮らすのは誰からも阻止される必要の無い最低の権利であるからです。
地球温暖化を個々の人間の生活態度に結びつけるのは、無謀であり無理があります。
地球上の全人類が全く同じ生活レベルで暮らし、同じ思想、宗教を持つなら別ですが。
話を戻しましょう。
勝海舟の言う「余裕」とは何なのか、そしてどこから来るのか、ということをよく考えてみる必要があると思います。
経済的金銭的余裕もあります。しかし、それよりももっと重要なものは精神的余裕であるのではないでしょうか。
「金さえあれば、何でもできる」と豪語する人も世の中には結構います。
しかし残念ながら「金の分限」の範囲内のことしか出来ないことに気が付いていない人が多いのです。
精神的余裕を大事にし維持すれば結果は大きく変わるでしょう。
無理を生じさせない算段をしなければならない。思慮を深くしてあらゆるものに敬虔な感情を 持ち、自己の容量を大きくしなければならない。それには勉学も礼儀も必要である。
これを渋沢栄一は「恭敬」と言っています。
人に対して恭敬の気持ちのない人は事に対しても必ず恭敬の気持ちがない。
恭敬の気持ちのない人は気持ちを一つに集中することが出来ず、注意が散漫になって物事 が成就しない。
逆に、恭敬の気持ちの盛んな人は万事に注意深いから危険も失敗も無く、精神統一、集中力に秀で自己研鑽に励み事を成し遂げる。
知と実と人に対する恭敬の気持ちが余裕を生む。その余裕の大小は肚で決まる。
思考をあっちへ飛ばしこっちで突き当たりながらの散策、たまにはこのような理念の世界に自分を投げ込むのも面白い経験です。
結論らしきものも出ないまま、会社に到着しました。
今から、起きて半畳の8時間が開始されます・・・
そして明日から、黄泉の世界へ旅立つまで繰り返される・・・
起きて半畳 寝て一畳 天下とっても二合半
それが人生なのです。
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手付かずの哲学 ・クライシスコントロール 2008年2月29日
http://mahalotaka.exblog.jp/7359244/
2008-02-29T06:06:00+09:00
2008-02-29T06:07:28+09:00
2008-02-27T11:13:53+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
クライシスコントロール・クライシスマネジメント。
日本語に訳すると、どちらも「危機管理」と言う言葉になる。
中国製冷凍ギョーザ中毒事件やイージス艦「あたご」の衝突事故など次々に危機的な事故や事件が頻発している。
今まさに「危機管理」が問われる時期なのであるが、残念なことに我が日本国で言う、
「危機管理」は、「クライシスマネジメント」のみが一人歩きしているように見受けられる。
「クライシスマネジメント」とは、事件、事故の事後処理を中心とした作業等と理解されているようだ。 いわゆる責任追及と賠償問題の処理等。
野党は与党を、マスコミは政府を厳しく追及する。
それはそれで必要な事柄ではあるが、その前にもっと真剣に取り組むべき課題がある筈だ。
真に必要とされる「危機管理」とは、即ち「クライシスコントロール」なのである。
マネジメントが事後の処理や手続きを中心とするのに対し、コントロールは未然に危機を防ぐ対処を含む概念である。
国の施策は勿論のこと、企業や組織で起きる不祥事、家庭内のゴタゴタもコントロールをせず、マネジメントにのみ偏ってしまっているのではなかろうか。
不祥事を起こした社員を解雇したり、料理中誤って火災を引き起こしてしまった妻を離婚しても問題の解決には至らない。
そうならない先見力を備えたコントロールを備えるべきだ、組織も個人も。
噛み砕いて解りやすく事例を挙げると、我が家では冬の暖房はエアコンと石油ストーブであるが、孫娘(3歳・5歳)が遊びに来る時は石油ストーブを室外に撤去する。
また角の尖ったものや鋏などの刃物類、その他幼児の行動に対して危険と察知されるものは全て収納するか、触れることの出来ない場所に保管する。
結構大変な作業だが、毎回実行している。
幼児には危険予知能力が乏しい、未経験であるが故に常に危険と隣り合わせである。
これを保護し事故を未然に防ぐ行為を為すのは大人の責任であり義務である。
これが、クライシスコントロールである。
切り傷を負って、泣き叫ぶ幼児に「用意していた薬」を塗ってやるのが、マネージメント。
危機はいつでも、どこでも起こり得る。まずは個人一人一人がしっかりとしたマネージャー、最終的には先見性を備えるコントローラーになることが重要であろう。
国家も企業も個人も、そのような理念と哲学を持つべきだと思うが、どうだろう・・
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手付かずの哲学 ・家族間犯罪について。 2008年1月31日
http://mahalotaka.exblog.jp/7102447/
2008-01-31T00:38:00+09:00
2008-02-28T17:25:28+09:00
2008-01-28T11:13:11+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
子供が親を殺す時代。
個別の話はさておくが、昨年から今年にかけて家族間殺人・親族殺人が異常に増えた。
何が原因で、親が子を、子が親を殺戮するのか、そこに至る経緯や動機は他の金銭目的や性犯罪がらみの殺人事件の例と違い、非常に解りにくい。
判決を受けてなお、動機の解明に至らぬ事件が数多く存在する。
特に子供が犯人(容疑者)の場合は一層困難となる。
報道機関やジャーナリスト、或いは専門家でさえ動機の解明、或いは真実に迫れない
ジレンマに陥るケースが増加しているのではないだろうか。
もちろん法律の壁なる問題もあり、子供の心底の心情を把握できぬままに大人が粛々と、或いは法手続きに従い事務的に、その子供の将来を決定して行くのであるが、それ自体は個人的感傷を抜きとして、仕方のない、やむをえない現実だと考えられる。
自分を生み、育ててくれた母親を父親を殺害した子供が、第三者である他人に心を開くとは考えにくい。 (短い時間の間に・・という前提だが)
心理学者の他人事的学者的解説にも、今ひとつ納得が出来ないのが、我々一般人の感情ではないだろうか。
原因や動機の発生が精神医学の分野へ移行すれば、大抵の場合その事件は落着したと受け取られる。そのこと事態もある意味現代社会の厳然たる仕組みのひとつであろう。
要するに、一般の良識ある人々はマスコミの一部のエリート層と呼ばれる偏向意識の持ち主より、人生経験と人情を持ち合わせているということだろう。
その良識ある一般人から見れば、100件の事件が発生すれば、100件の動機が存在する、という感覚や考え方は、あたりまえの話である。
では、その動機を知ったとして、「人々はどのように自分や家族に当てはめて、おぞましい惨劇を未然に防ぐか」などという、人生経験の乏しい、いわゆる著書や判例、学術研究発表からのみ知識を得た、学者やニュース解説者がいたとしたら、見当違いも甚だしい。
一体何をどう当てはめようというのだろうか、ありえない事、あってはならない事が現実に発生しているという事実を認識するだけで充分ではなかろうか、個人其々の心(脳)の奥の深層心理や感情は千差万別である。
恐怖・怒り・恐れ・悲しみ・憎しみ・・・は、それぞれ個人によって温度差があるものだ。
一人の人間の感情を他の人間に当てはめる事は、心理的にも行動の面からも無理を生じるだけである。
それより、新聞テレビ、マスコミ各社は事実だけを報じ、間違ってもセンセーショナルに取り上げないことだ、それこそが、次の犯罪のトリガー(引き金)になる可能性があるからだ。
家族間殺人は昔から続いている。
姥捨て山や間引き(生まれてきた子供を殺す)など、貧困が原因の悲惨な風習は、昔から日本社会の根底で容認されてきた経緯がある。
一家無理心中などは、現在社会においても続く、やるせない行為である。
介護疲れ、病気を苦にして、借金のために、その他諸々の原因で死を選ぶ人が、いまだに世の中に存在するという悲しい現実がある。
最も身近な者を道連れにするのは、許しがたい行為であり、同情の余地も無い。
『可愛そうに・・』『気持ちはわかる・・』などは、無責任な放言だと思わなければならない。
人を、生き物を殺すという罪はどのような理由があっても許される行為では無い。
社会全体が曖昧な態度をとらず、この種の犯罪に厳しい目を向ければ、ある程度の抑止効果は生まれてくるだろう。
同時に、悩み苦しむ人を無謀な行動に駆り立てない、社会全体の仕組みや保護制度も進めなければならないだろう。
夫婦喧嘩、親子喧嘩はしたほうが良い。
つい最近イギリスの学会「人間の寿命に関する研究」で、夫婦喧嘩をする人のほうがしない人より10年以上長生きをする、というユニークな結果が発表され注目を集めた。
それによると、喧嘩をしない夫婦は相手との摩擦を避けるため、言いたい事があっても言わずに我慢をする。結果的に不満や怒りが蓄積されてストレスになり、やがて疾病を引き起こす原因となるから、寿命が短くなるという。
それに反して、絶えず口喧嘩や言い争いをする夫婦は、自分の思いや考え方を吐き出すことでストレスが溜まらず、議論する中で脳の活性化にも繋がるというのである。
真偽の程はともかくとして、この中で気になるのは「相手との摩擦を避けるために・・・我慢する」というくだりである。
これを日本の最近の家族間殺人事件に当てはめてみると、ボンヤリでは有るが輪郭が見えてくるような気がする。全ての事件に共通とまでは言えないが、家庭内で摩擦を避けるために心を閉ざし、怒りや恨みを永年にわたり蓄積させていく家族がいるとすれば、恐ろしい結果を生み出す要因の一つとも考えられなくは無い。
溜まりに溜まった怨念や憤怒が爆発するとき、それは最悪の結果をもたらすものとなるのである、火山の噴火か地震のように。
人間も自然現象も理屈は同じである、許容量以上に溜まったものは外へと噴出せざるをえないわけである。 日頃から溜まりかけたエネルギーを小出しに放出しておけば、大噴火は免れる。
人間で言えば、議論でありコミニュケーションである、もっと言えば「小さな言い争いはしたほうが良い」と言えるのではないだろうか。
我が家では、家族が集まれば全員が常に自己中心で言いたい事を言っている。
時には小さな喧嘩になることもあるが、大抵の場合喋りつかれて眠ってしまうのがオチである、おかげで深刻な家族間の争いや、憎しみの感情とは、全く無縁だ。
これが、我が家族の哲学である。
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手付かずの哲学 ・悲観主義 2007年12月31日
http://mahalotaka.exblog.jp/6835456/
2007-12-31T00:02:00+09:00
2008-02-28T17:26:28+09:00
2007-12-28T23:50:30+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
泣いたり笑ったり、恋したり愛したり、嫉妬したり恨んだり・・・
迷ったり悩んだり、喜んだり怒ったり、自己満足したり不安になったり・・・・
今年も色々様々ありましたよね、・・・で、何を学びました?理解できました??
地球という掛け替えの無いマザーは人間の想像を絶するスピードで驀進(ばくしん)しています。 4,500,000,000年(45億年)もね。
2006年の12月31日と今日2007年12月31日の地球の位置は全く違うエリアにあることをご存知ですか?
いわゆる宇宙創設のビッグバン、知っていても知らなくても現実の世界は日々膨張と移動を続けているのです。
全宇宙から見れば点にさえ見えない地球。その点以下の超ミクロの乗り物に乗った人間が瞬時の人生を悲喜こもごもに経験しているわけですが、それすら瞬きの何千兆分の一くらいの刹那の出来事かも知れません。
今年も様々な出来事がありました・・・と、識者やマスコミが語りかけます。
家族間犯罪、親族間殺人。
一昨年は「いじめ自殺」が話題の中心、人々は憤り悲しみ、怒り、ため息をつきました。
でも、1年経過すれば忘却の彼方に置き去られています。
今年お笑いタレントが「でも、そんなの、関係ねえ~!」で人気を得ました。
そうかも知れない、そんなの自分の人生に関係ない! 人は人、自分の人生が充実してればそれで良い。
事実(現実)はそれが真実かも知れません。
真の哲学を議論するには、人間の一生はあまりにも短過ぎますものね。
嘆いてなにが残るの、なにが生まれるの?
本題に移ろう。
2007年は倫理観と責任感が崩壊してしまったような事件が相次いだ。
『なんという世の中になってしまったのか・・』
『日本人の醜さが噴出した・・』とか『今時の人間は何を考えているのか・・・』という声がよく聞かれる。
そして最後に決まって口にする言葉が、
『昔は良かった、こんなにひどいことは起きなかった』いわゆる悲観論である。
チョット待ってほしい。
今回の事件の殆どは、その古き良き昔に始まったものであることを理解した上での発言だろうか、赤福餅の偽装は30年以上前から行われている。
高速道路の型枠強度を40年間偽ってきた栗本鉄工所、年金や税金の無駄遣い、防衛省の役人と業者の癒着、薬害C型肝炎問題、今に始まった問題では無いのである。
倫理観と責任感、それに正義感と告発する勇気が欠如していることに気づかず、問題にしてこなかった「昔」と、それが厳しく問われ、次々に露呈される「今」。
どちらがひどいのだろうか。
浄化作用がそれなりに働き、世の中はまともになりつつあるとは考えられないだろうか。
我々の次の世代、あるいはその子供たちに思いをはせてみよう。
『ひどい世の中になった』とか『金はなかったが、心は豊かだった』と、嘆いたり昔を懐かしむ風潮を彼らはどう受け取るだろうか。
「誰のせい・・」といいたくなるのではないだろうか。
実際、世の中はそれほどひどくはないし、日本人は壊れてもいない。
問題は様々にあるが、解決できないわけではない。「喪失」「崩壊」と嘆く人は、その気をなくし、未来への責任感がうせた好い訳をしているだけかもしれない。
【一部毎日新聞記事より引用】
来年はヘレン・ケラーが亡くなって40年になる。彼女は生前こんな言葉を残した。
若者よ、冷めるな、あきらめるな、しらけるな。君だけには悲観主義者になってほしくない。今年最後のイボイノシシのメッセージを、君に伝えたい。
本年は楽しくお付き合いいただき、ありがとうございました。
来年も毎日更新を続けて行きたいと思っています、皆様のご訪問だけが頼りと励みです。なにとぞよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。 m(__)m
それでは良いお年をお迎えください。
MAHALO♪♪
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手付かずの哲学 ・病の哲学 2007年11月30日
http://mahalotaka.exblog.jp/6644217/
2007-11-30T00:01:00+09:00
2008-02-28T17:27:39+09:00
2007-11-28T14:37:00+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
2~3ヶ月前くらいから喉の奥になんとなく違和感を感じ始めた。
痛いとか、苦しいとか言う物ではなく、何となく食事の後に残余感のようなものを意識しだしたのである。
食べ物の端切れが食道の入り口辺りに滞留したような感じで、気にはなっていた。
最初のうちは魚のうろこくらいの異物感であったが、徐々に大きくなってきたような気がする、うがいをしたり、のど飴を舐めたりしてみたが一向に収まらない。飲み込もうとしても飲み込めない、吐き出そうとしても吐き出せない。
徐々に不安感が増してきた「ひょっとしたら・・」
半月前くらいに風邪気味になり、会社の帰り道かかりつけのクリニックに立寄った。
自宅から歩いて2~3分のところにあるクリニック(診療所)で、生活習慣病検診やメディカルチェックなどの結果をカルテとして保管してもらっている。
ドクターは40代の人当たりの良い方で、結構親しくしてもらっている。風邪の診察が一段落したところで、思い切って相談してみた。
「先生、私、咽喉癌か食道癌じゃないでしょうか・・・」
ドクターの表情が一瞬険しくなり、『診察してみましよう・・』と私の口を開けさせた。
結論を先に言おう。私は癌(ガン)ではなかった。
ドクターの見立てによると、年に何人かが私と同じ症状を訴えて来院するとのこと、昔からある神経性の症状で特に女性に多く見受けられる「原因不明の症状」であるらしい、現代医学ではこのような症状を、「ヒステリー球」と呼んでいるそうだ。
ヒステリー球とはユニークな呼び名だが、実際に医療現場で使われている医学用語なのである。
「咽頭神経症」「咽喉頭異常感症」とも呼ばれ、次のような症状を伴う。
「喉がつまる」 「喉の圧迫感」 「咽喉異物感」 「喉が腫れぼったい」
「喉に玉のような物があるような気がする」 「首を絞められている感じ」
「飲み込みたいけど飲み込めず、出したくても出せない」
まさに私が経験している状況そのものだ。
検査してみても特に腫瘍やその他気になるものは見つからない。
今日は「ヒステリー球」の話をするつもりはないので、もし、偶然同じような症状を経験されている方は、こちらをクリック⇒「喉つまり感を改善しましょう」してもらえれば、この症状の内容と対処法が理解できると思う。
そういうわけで、私の癌に対する恐怖と不安は霧が晴れるように消えてしまった。
あれだけひどかった症状も、説明を受けた日からウソのように回復していった。不思議と言えば不思議である、人間の病に対するメカニズムが多分に神経と密接な関連を持っていることが、何となく理解できたような気がする。
人間はいつか亡くなる、死亡するのである。これは間違いのない真実だ。
しかし、殆んどの人間は自分がいつ死ぬのかは解っていない。定かな話では無いが人間の遺伝子(DNA)には、それぞれにその人間の死亡する原因である疾病と時期が組み込まれているのだそうである。
突発的な事件や事故、或いは災害や戦争で命を落とす場合を除き(それさえも、遺伝子のなせるわざと言う学者もいるが・・)脳梗塞や癌、心臓病や内臓疾患で大体この辺りの年齢で寿命が尽きる、というプログラムが生まれた時から組み込まれているそうである。
「運命」というのは、この遺伝子の働きを指して言うのだろうか・・という気さえしてくる。
もし科学や医学が進んで個々の人間の寿命が解明される時がきたら、大変なことになるのではないだろうか。
現在実際にその研究に取り組んでいる機関も世界中にあるらしい、これは純粋に医学的見地から病気の克服や死亡率の低下を願ってのことであるが、もし、悪用されたら地球は大パニックに陥るであろうと想像できる。
もっとも、その頃私はこの世に存在はしていないだろう。遺伝子のプログラム通り
心臓病か脳梗塞あたりで、それなりの人生を終了している筈だ。
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手付かずの哲学 ・思いつき・思い込み・思い違い・・2007年10月31日
http://mahalotaka.exblog.jp/6470238/
2007-10-31T18:20:00+09:00
2008-02-28T17:29:21+09:00
2007-10-29T23:47:59+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
思いつきと思い込み、思い入れと思い違いが、
人生の大半を決定する、良くも悪くも・・・・。
瞬く間に月末が訪れた。
年齢を重ねるにつれて時間の経過が早くなる、月に一度の「手付かずの哲学」考える時間は充分すぎるほどあるだろうと、ノンビリ考えていたらアッと言う間にその日がきてしまった、「間違った思い込み」だろう。
とりあえずいつものドイツレストラン ELNA ADRARN エルナ・アドリアンでゆっくり哲学してみる。
日本語には「思い・・なになに・・・」という言葉が異常に多い。
全部をここに掲載する気はないが、文中に出来るだけ多用してみよう。
今回は趣向を変えて、最近世間を騒がせている事象や事件について、「思い・・なになに・・」を適当に当てはめながら、人間の性(さが)や社会全体の風潮を、マスコミや評論家とは少し違う角度と視点から、「哲学的」に眺めてみたい。
あくまでも1個人の主観だから、多少の誤解と偏りを感じられる方もおられると思うが、「秋の夜長の3文エッセー」くらいの軽い「思い入れ」で読んでいただければありがたい。
*新聞とテレビ、ネットから適当に得た情報をベースにしたので、真相がどうなのかまでは、考慮していない。また、できない。当事者には失礼だが一般的レベルでの無責任評論である*
エリカ様と亀田家の思い込み
ネタとしては少し古いが、ともに世間を騒がせたゴシップ。
誰かが怪我をしたとか、金銭的被害が出たとか言うような問題では無いが、ここしばらく世間が多いに沸いた。
「生意気」「非常識」「卑怯者」「許せない」「謝罪しろ!」・・・その他聞くに堪えない罵詈雑言が浴びせかけられた。
この二組の虚像を作り上げた張本人のテレビ局が、手の平を返して攻撃を仕掛けた図だ。
世論調査を実施、当然批判の方が多い、そこに解説者やコメンティターがここぞとばかりに糾弾する。「謝罪しろ!」「謝るべきだ!」・・・
テレビ局の思惑通り、当人達がテレビ画面の中で神妙に謝罪した。
エリカ様と呼ばれるタレントも、涙を流しながら詫びた。
ボクシングのタイトルマッチで反則行為を繰り返した亀田家も父親と次男が公の場で謝罪、しかし世間(マスコミ)は納得せず、再度長男が一家を代表して謝罪、レポーターの意地悪い質問にも耐えてひたすら謝った。
テレビ局は早速世論調査、認める50%認めない50%・・・それについて、またコメンテーターを集める。
日本の国は世界でも珍しいほどの謝罪文化を持つ国である。
謝罪することでかなりの大罪も許される可能性があり、謝罪という行為が常に求められている。しかし大半の国民はそれを求めているわけではない。求めているのは第4の権力ではないだろうか。
街頭インタビューで一般人の声を拾う、中には原因はマスコミ(テレビ)にある、と言い切る人も出てくる。これも原因を作ったといわれるテレビ局の演出、批判をかわす姑息な手段だと思わざるを得ない。
これら一連の低レベルのゴシップネタを長時間にわたりワイドショウなどで放映、ガッポリ視聴率を稼ぐ。批判をするテレビ局も批判を受けるテレビ局も、本来の目的である視聴率アップに笑いが止まらない。
ライバル局は執拗に過去にさかのぼり、疑惑を掘り返そうとする。
兄弟の過去の対戦相手(タイのボクサーが多かった)が、花屋の店員だったとか、空港職員でアマチュア・・・とか、醜いゴシップをこれでもか、と連日放映する。
「亀田家」が絶頂の時になぜ問題視しなかったのか、不思議な思いがするが、指導すべき立場の関係者の思い切りの悪さだろうか・・・
結果的に、亀田家は父親の思いつきと思い込み、そして親子の思い上がった行動と言動で、一夜にして天国から地獄へ落下した。
こういう図式をいったい誰が思いつくのだろう・・・ある意味で感心する。
沢尻エリカというタレントさんは今回の騒動で始めて顔を知った。
私から見れば同い年くらいの女性タレントは皆同じ顔に見えてしまう。エリカさんのお母さんはフランス人らしい、アルジェリア系フランス人というから、あのサッカーのジダンと同じだ、ワールドカップかなにかで暴力騒動があったが・・・
その飛び切り(?)の容姿でお姫様のように扱われていたエリカ姫が、ある日一般客が沢山集まっている試写会の席上、インタビュアーの質問に『別に・・・』と言って、ふてくされたそうである。
そのふてくされの原因は未だに不明らしいが、その態度の悪さに世間(マスコミ)が一斉に大ヴーィングを浴びせたわけだ。
おかげでCMは打ち切り(更新せず)バッシングの影響で仕事は激減、本人は憔悴の日々を送っている(デートをしていたという情報もあるが)という、どっちゃでも良い話。
分析してみると原因は、思い込みと、思い上がりだろうか・・・
「女優や芸能人になろうかとする女性は自己顕示欲が強い」というのが、世間の思い込みだろう。
別に間違った考えではない。テレビ画面やスクリーンに映える容姿端麗な女優は人気も出るだろうし、周りもチヤホヤするだろう、自己顕示欲の強い(で、あろう)この娘は大満足で、更に自己の存在感を高めていこうと思い込んだのではないだろうか、そこを利用して所属するプロダクションと、テレビ局や映画界の大人たちが持ち上げもてはやし、徐々に虚像を作り上げていったのだろう、「エリカ姫」「エリカ様」という虚像を、である。
悲劇は、彼女の思い違いに起因するのではないだろうか、もっと言えば思い上がりか、本来の彼女はひょっとしたら素直な娘だったのではないだろうか、作り上げられた自分の立場を疑うことも無く、素直に受け入れてしまった。
そして、あの発言に結びつく。まさかここまでえげつなくバッシングされるとは夢にも思っていなかっただろう。
あの程度の発言や態度を取る女優はハリウッドにいけば、いくらでもいる。
アメリカの超人気アイドルのブリトニー・スピアーズなんかは、エリカ姫の比ではない。
頭を丸刈りにしたり、パパラッチを傘で追い掛け回したり、すき放題な行動と発言を繰り返している。勿論エリカ姫のように涙を流して謝罪なんかしない。
それでも、世界中で人気者だ。
セクシーを売り物にする歌手マドンナなんかは、イスラム過激派に狙われるくらい激しい行動(音楽活動で)を取っている。
彼女達に共通するのは、自分を、或いは自分の立場をハッキリ認識しており、虚像の自己に対する思い入れを高めて行動や発言をしているところである。
日本のジャリタレントの思い上がりとアメリカの鋼鉄アクターの思い入れの差だろう。
さて、ここでちょっと面白い実験をしてみよう。
下の写真は、私がある場所で撮影した物体の一部分である、光も色もその他なにも触っていない、加工や編集をしていない素の写真の一部だ。
いったいナニを撮影したのか、下記の答えから一つ選んでいただきたい。
①海の石を入れた水槽で泳ぐグッピー(ブラック)が2匹、左端に小亀が見える。
②ドイツレストラン、エルナ・アドリアンの壁のディスプレー、投げ矢の羽根飾り。
③フランス印象派の版画の一部分、日本の富士の裾野と羽子板の羽根の印象。
④北極海に近いノルウエーで取れた、キングサーモンの胴体の一部分。
⑤南太平洋夜の砂浜の写真、海がめの頭と絶滅植物の胞子。
*正解は最後に掲載*
次は連日のように報道されている、食品表示の偽装問題。
北海道の「白い恋人」売れ行きナンバーワンのお土産、その前は同じ北海道のミートホープ社、少し前は雪印。
そして伊勢名物の「赤福」続いて同じ種類の「御福餅」と「太閤出世餅」そして大阪「船場吉兆」
船場吉兆は私が勤める会社から目と鼻の先にある。
廃棄鶏肉を「秋田の比内地鶏」と詐称して、消費者を騙し続けた業者、鹿児島のデパートでは宮崎の地鶏のウソ表示。
今日はあの「ミスター・ドーナツ」がニュースになっている。
いったいこの国はどうなってしまったのか、どうなるのか?
いずれのケースも名門店、或いは何百年の伝統を誇る老舗が当事者になっている。多くの日本人の思い込みからすれば、信じられない事態が続出している。
誰がこのようなルール違反を思いつくのであろうか、ミートホープ社の場合は社長の思いつきだった、彼は昨日道警に逮捕された。留置場の中で惨めな思いをしていることだろう。
では老舗といわれる、赤福や吉兆はどうなんだろう、誰が思いついたことなのだろうか。捜査の進展を見なければ分からないが、そういうことを認める、認めざるを得ない体質が企業にあったとしか考えられない。
ここでも伝統に胡坐をかいた思い違いが全体を支配してしまったのか、或いは伝統の重みに対する焦りの思いか。
今後彼らが糾弾されるのは、老舗の誇りに対する思い入れの精神と、消費者に対する感謝と思いやりの心が欠けていたことだ。
熟慮考慮を重ねて、個人の生き方や組織の進路を決定する方法をとれば、このような失態やトラブルは防げたはずだ。
どこかに「売れれば良い」「儲かればよい」の刹那主観があり、それが単純だが後に後悔と謝罪の結果を生むことに繋がっていくのだろう。
(この項終了)
先ほどの実験の結果は、④のサーモンが正解。
合っていましたか?合ってた人は、柔軟な思考力と観察力のある方。
この写真は近くのスーパーで見つけたノルウエー産のサーモンでした。
④以外の答えを指した人は、頭の回転と想像力が豊かな人です。写真だけを掲載しておけば、半分以上の人が「サーモン・鮭」または「魚のひれ」と、ほぼ正解を出したと思います。
けれど、下の5つの答えに想像力を膨らましすぎた結果、迷路に陥った思い込み・思い違いの怖さというところです。
私の主観ですが、現在のマスコミ「テレビ」はこのように真実の一部だけをチラリと見せて、後はコメントで視聴者の思い込みや思い違いをリードしているのではないでしょうか。
憂うべきことです。私の思い過ごしでしょうか・・・
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幸福だから笑うのか、笑うから幸福なのか、 2007年9月30日
http://mahalotaka.exblog.jp/6234316/
2007-09-30T14:50:00+09:00
2007-09-30T14:50:39+09:00
2007-09-26T13:22:12+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
今月は、「笑い」について哲学してみよう。
最近大笑い(爆笑)をしたことがあまりない。
子供たちが離れて妻と二人暮しであるから、笑う要因が減ってきたことも原因の一つだろう。家族が多いときは誰か笑わせてくれる者がいたり、その行動や仕草で笑いを誘発してもらう場合が多々あった。
現在笑うと言えば、テレビのお笑い番組やブログの面白投稿に「クスッ」と微笑む程度である。これは都会で一人暮らしする若者や、単身赴任者、独居老人にも形は違うが共通する状況ではなかろうか。
古来から東西の哲学者や社会学者、それに詩人などが「笑い」について哲学をし考察しているが、笑いを定義するのは案外難しい。
一般的にいえば陽性の感情の中で顔面が特有の緊張(笑顔)をすること、同時に特有の発声(笑い声)を伴うことが「笑い」の状態といえるだろう。
自分以外の対象(家族・友人・知人・芸人・タレント・・)があって、それから受ける印象に基づいて、それが好意的であれば表情に「笑い」がでる、そして特に刺激的な場合は発声「笑い声」が伴う。さらに程度がひどくなると全身が引きつるような動作とともに涙さえ出てくる。
まあ解りやすく言うと、笑いとは、楽しかったり、嬉しかったりなどを表現する人間特有の行動の一つであるということ。
全く自発的な場合もあるが、他人の行動や行為に対して、「笑う」という表現を通じて自分の意思を伝えることにも使われる。
同じ発音だが「嗤う」と書くとあざけりの意味が含まれる。
笑いの医学的、生理的な効用
笑うという行為は身体に良い影響を及ぼすといわれる。笑うことで頬の筋肉が働き動くことにより、ストレスを解消し、また鎮痛作用たんぱくの分泌を促進させ、ストレスが下がることにより血圧を下げ、心臓を活性化させる運動の状態と同様の症状を及ぼし血液中の酸素を増し、さらに心臓によりよき影響を与えることから、循環器疾患の治療に「笑うこと」が用いられている事例もある。
また笑いによって自律神経の頻繁な切替が起こり、交換神経と副交換神経のバランスの状態が代わり、副交換神経が優位な状態になる。
副交換神経は、安らぎ・安心感を感じているときに優位で、副交換神経が優位な状態が続くとストレスが解消される。
反対に交換神経は、怒りや恐怖を感じたときなど異常な事態のときに優位になる。したがってその状態が長く続くとストレスの原因となる。
笑うという行為で身体中の様々な器官に刺激が与えられることも証明されている。
NK細胞(ナチュラルキラー細胞)が活性化しガンの予防と治療の効果がある。自律神経の頻繁な切替による脳への刺激により、神経ペプチド(免疫機能活性化ホルモン)が全身に分泌される。
その他、糖尿病の治療に有効との研究もあり、病理学的見地からみて様々な効用もあるが、これ以上は紙面の都合上割愛する。
笑いの発達と笑いの分析
笑い(微笑)は生まれたての赤ん坊にも観察される行動だ。起きているときだけでなく、睡眠中にも規則的な周期を伴って生起する。これは「新生児微笑」と呼ばれるもので、養育者(主として母親)の注意を引き自分に対する関心を維持させる機能を担った「生得的行動」と推測されている。
実際「新生児微笑」に対して養育者は高い確率で「ポジティブな応答」を返すことが知られている。
このような相互作用の結果、乳児は2~3ヶ月の頃から社会的交渉を持つために、周囲の者に対して自発的に微笑を向けるようになる。
「笑い」とは外れるが、動物の赤ん坊が可愛く愛くるしいのも、生き残る為の自然の造型だと言われている。
一般的に「笑い」というのは、「構図(イメージ)のずれ」と分析されている。少し長ったらしくなるが、最近我が家族間で起きた「構図のずれ」による笑いを紹介してみよう。
【ほら話でない、ほら貝の話】
先日妻の実家で法事があった。平日だったので男性陣は勤務の関係上お参りできなかったが、妻と娘が参列した。
これは妻が帰宅後語った話。法要のため真言宗の寺院のお坊様にお願いして、仏壇の前でお経を読んでいただく事になった。このお坊様は中々に気さくな方で私もよく存じている。仏教を解りやすく人々に伝えたいとの趣旨から、経文を解りやすい形にアレンジして参拝者と唱和する形式をとったり、木魚、鐘、ほら貝などを使って法要や仏事を執り行う事で有名な方だ。
で、重々しく始まった法事の席、読経が終ると同時にお坊様が恭しく取り出したほら貝を、仏前に向って吹き始めたそうだ。それと同時に娘が噴出した(洒落を言っているのでは無い)笑いが止まらなくなり、娘は悶絶し下を向いて笑いを堪えるのだが、一向に収まらない。肩を震わせ涙を流しながら笑いを静めようと苦労していたらしい。
『まったく、不謹慎な子よ!』と女房はかなり怒っていた。しかしその後彼女の口から出た言葉に今度は私が噴出した。
『でも、あのお坊様、ほら貝の吹き方が下手なのよ・・まるでオナラみたい・・』
たとえ話が不謹慎であるが、これが「構図のずれ」からくる笑いである。
「お坊様は真面目で威厳があり、修行も積まれて徳のある人で、人前で失敗したり滑稽なことなどするはずが無い」というのが娘の持つ「構図(イメージ)」である。
その構図が見事にずれたことによって笑いが起きたことになる。
しかし人生経験豊かな妻や出席した親族たちの構図が「お坊様に権威があるとは限らない」「ほら貝を吹くときに間違った音を出すのは、意外な出来事ではない」などを含むものであったと思えるので、構図のずれが発生しなかったのである。だから笑いが起きなかったのだ。
同じ出来事に対して笑いが起きるかどうかは受け手の持つ構図に依存すると言える。
若い娘に対して「箸が転んでも笑う」という例えが、これで理解できたのではないだろうか。
「笑い」は奥が深い
笑いを哲学するなら膨大なページ数を必要とし、とても素人のブログで理解させ結論付けできるものではない事は充分に解っている。
それでも、人間として生を受け数限りない場面で経験してきた「笑い」という行動を通して、なんとなく解りかけてきた笑いの哲学。
もう少し掘り下げてみたいという興味が尽きない。
真の笑いはどこにあるのか、仏像の微笑が究極の笑いだと言う人もいる。日本人は特に笑いに拘る傾向が顕著だ。
笑いを表す表現(言葉)もその数の多さに改めて驚く、又昔から笑いを職業とする人々が多い国もやはり日本だろう。「笑う角には福来る」機会があれば再度哲学してみたい。
(笑いに関連した日本語)
笑顔・微笑・爆笑・大爆笑・失笑・苦笑・照れ笑い・愛想笑い・泣き笑い・含み笑い
薄ら笑い・せせら笑い・作り笑い・思い出し笑い・独り笑い・高笑い・馬鹿笑い
追従笑い・貰い笑い・・・・・・・・まだまだ、笑いは星の数ほどある・・(笑)
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公平・不公平とは・・・ 2007年8月31日
http://mahalotaka.exblog.jp/6046298/
2007-08-31T00:01:00+09:00
2007-08-31T00:03:00+09:00
2007-08-28T22:09:40+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
今月のテーマは、公平と不公平についてです。
例によって辞書を開いて見よう。
【公平】こうへい 「すべてのものを同じように扱うこと」とある。「判断や処理などが、片寄って(偏って)いないこと」とも書いてある。
【不公平】は、「公平でないこと」「片寄りがあること」・・当たり前の事が書かれている。
もう少し詳しく調べると、「不平等」「片手落ち」「依怙贔屓・えこひいき」とある。
「公平か不公平か」これは最もポピュラーな哲学の題材である。いわば哲学の入門編のようなものだ。
他の題材、例えば「人間はなぜ生きるのか?」などは、哲学に限定されること無く物理学や人類学、生物学、自然科学、歴史学、考古学、医学の分野まで広げることが可能だ。
その点、「公平か不公平か」は前置詞が付かない限り、分類が困難だ。
「裁判は公平だったか」であれば法律司法、税金や年金或いは各種保証制度について論じれば政治学、経済学か、それぞれの前置詞次第で裾野は広がる。
ここは簡単に、「個人における公平不公平」から、話を進めてみよう。
このブログを訪問できる能力のある人で、生まれてこのかた『自分は不公平な扱いを受けたことは無いし、不公平な扱いをした覚えも無い』という御仁がいればぜひコメントをいただきたい。多分ユネスコあたりから「希少絶滅種ホモサピエンス」として一生の生活は保護されるだろう、ただし精神科医と科学者の監視の下で。
人類(動植物を含む)は、生まれる瞬間から「公平・不公平」の狭間に翻弄される。鷲や鷹などの猛禽類は一度に2個以上の卵を産むが、生き残る雛は1羽と言うのが定説だ。親鳥は元気に口を大きく開く雛に餌を与え続ける、弱々しい子供には見向きもしない。そして元気な雛が成長を続ける、これが自然の掟だ。この場合決して親鳥は責められない、元気で大きく口を開く雛の嘴(くちばし)には、ある種のシグナル(マーク)があり、親鳥は本能に従って餌を与えるのである。
人間に戻ってみよう。マイブログでもお馴染みだが、私には2人の可愛い孫がいる。どちらも愛しい、命が懸けられる掛け替えの無い存在だ。
2人が自宅へ来る時や、どこかで逢う時は必ず同じようなお土産やプレゼントの品を用意する。差別をしないよう大変気を使う、公平に公平にと。
しかし彼女たちがこの世に生を受けた時、公平な扱いだったか・・というと、いささか疑問を生じる。私にとって生涯初めての孫、即ち初孫にあたる長女が生まれる前後は、ハッキリ言って舞い上がってしまった。
自分がオジイチャンと呼ばれる存在になることへの複雑な心境。我が子が子供を授かるという、嬉しいような恥ずかしいような気持ち、全てが初めて尽くしだから無理も無いが、いよいよ対面する初孫のために日常生活が大きく変化した。
無事誕生してからも、どれだけの贈り物をしただろうか、会社の帰り道にベビー用品のお店に何の抵抗も無く入っていったことも、幾度かある。
究極は、初孫が一歳半になった時に、お祝いとしてハワイまで連れていったことだろう。
10日間の旅行中片時も孫のそばを離れた事は無い。永年連れ添った女房が焼きもちを焼くぐらいベタベタと戯れた。
プリクラ写真を何にでも張り付けるギャルのように、定期入れ、眼鏡ケース、カバン、会社のデスク、パソコンの壁紙、ありとあらゆるものに初孫の笑顔が張り付いた。体形や性格しぐさに少しでも似通ったところを見つけるたびに、体が熱くなるほど愛おしさを感じた。世間ではコレを爺馬鹿(ジジバカ)と言うのだろう。
初孫の誕生から3年後、二人目の孫娘が生まれた。
勿論喜ばしいことだ、家族が増えるという事は人生の励みにもなるし、生きる気力を与えてくれる。当然誕生の日は産婦人科に駆けつけた。だが、何か違う、初孫の時の「ドキドキ感」と「不安感」が無かった。
孫達の父親である私の長男から電話で知らせを聞いた時も、初回の感覚とは全く違っていた「そうかそうか・・良かった良かった」・・長男は恐らく『親父やけに冷静だなあ』と感じたかもしれない。
これを「慣れ」或いは「経験」から来る「落ち着き」と分析すれば、簡単な話なのだが、生まれてきた2人目の孫娘の立場になって考えてみると「じいちゃん!不公平よ!」となるのではなかろうか。
一般的に考えてもこのような「悪意の無い不公平」は、さまざまなケースで見受けられる。
最近はさほど著しくは無いだろうが、下の子供へ「兄・姉」のお下がりと称して引き継がれる洋服やランドセル、それにおもちゃ等。弟や妹から見れば「絶対不公平!」であろう。
少しばかりこじ付けみたいな話になるが、世の中には結構「不公平」がまかり通っているケースが少なくない。税制度にしろ司法や法務、或いは医療の現場においても、様々な不公平な行為や決まりが、まかり通っている。
ここであまり堅苦しい議論や評論をする気は毛頭無いので、話を変えよう。
時々感じるのだけれど、電車の停車駅。
地下鉄などは全駅に全車輌が停車するので問題ないが、特急や急行それに快速、通勤急行や区間特急とか言って、停車駅を限定してダイヤを組んでいるが、アレって不公平のサンプルみたいに思えるのだけど、どうだろう・・・
勿論各私鉄やJRにいちゃもんをつける気など毛頭ないが、哲学的に考えてみると、各駅のホームで電車を待つ乗客の心理状態に興味が湧く。
朝夕のラッシュ時、大量の乗客をスムーズにしかも安全に(合理的に)運ぶ為、途中の駅を通過する特急や急行電車の必要性は当然のこととして受忍できる。全列車が各駅停車になってしまったら、日本国中特に大都会では大変な混乱を招くだろう。
だから、各鉄道会社において検討に検討を加えた列車ダイヤには、感心もするし敬意を表する。しかしなお、そのダイヤで各駅停車の列車しか止まらない駅の周辺に暮らす人の心理が知りたいのだ。幸いと言うか偶然というか、私の暮らす場所の駅はいわゆる「ターミナルステーション」とか言う駅で、全列車が停車する。支線も2本有り始発電車も多数有る。
特急電車に乗ると、次のターミナル駅まで4つの駅を通過する。その内の1つの駅では先発の各駅停車の電車が、満員の乗客を乗せたまま特急の通過待ちをしている。
特急電車の窓越しにホームで待つ乗客の顔が一瞬だけど、目の前を飛んで行く。
いらついた顔や、怒りの顔など一切無い、皆無表情だ。(当たり前の話だけど)
朝、自宅を出て最寄の駅のホームに立つ。目的の普通電車はなかなか来ない、目の前を猛スピードで通過して行く「特急電車」続いて「急行」「快速」「通勤特急」「通勤急行」「区間特急」等々・・・やっと到着した普通電車は超満員のすし詰め状態。それでも乗客は黙々と肩口から自分の身体を押し込んで行く。
その瞬間「これは、不公平だ!」と感じる人間が一人でもいるのだろうか、それが知りたい、とても興味がある。
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毎月末の、手付かずの哲学。 2007年7月31日
http://mahalotaka.exblog.jp/5869076/
2007-07-31T11:11:00+09:00
2007-07-31T11:14:26+09:00
2007-07-27T11:26:21+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
物事の先行きなどを気にして、心を悩ますこと。
と、辞書に書いてある。
果たして世の中に心配事の無い人間なんて存在するだろうか・・・・哲学してみよう。
【心配】に(性)を、つければ【心配性】・しんぱいしょう・
ささいなことまで気にかけて心配する性質。とある。ひらがなの(り)をつけると、【心配り】
・こころくばり・となる。あれこれと気をつかうこと。心づかい。配慮。などと説明されている。
(心配の種)
人間であれば誰でも大なり小なり心配事を抱えている。
これは、明らかな真実だ。脳疾患などで思考力が無くなった場合か、生まれたての乳幼児でもない限り、内面的にも外面的にも何らかの「心配事」を持ち合わせているものだ。
心配事の原因や要因には実に様々なものがある。個人的な心配事、組織・団体としての心配事、もっと広げれば国家として、民族としての心配事。全地球規模の心配事まで存在する。「地球温暖化」など、自然災害や天候異変に対する「心配」はその最たるものだろう。
つい先日、イタリア・セリエAのサッカーチームが来日予定をキャンセルしてきた。中越沖地震で損壊した「柏崎原発」の放射能漏れに異常に反応した結果である。
ある選手など『子供が生まれたばかりだ、家族のために日本には行きたくない!』と発言したと言う。「大袈裟な・・・」と思う日本人は多数いるだろう。彼ほどの恐怖心[原発事故に対して]を感じている日本人が何人いるだろうか、或いはそのこと(放射能漏れ)を知らない日本人もいるかも知れない。
人が心配をする原因は限りなくある、いわゆる「心配の種」だ。この心配の種は、やっかいなことに人によって様々に変化する。
もう記憶に無い人もいるだろうが、白い車に白装束をまとい「宇宙人に攻撃される」などと言って全国を放浪した集団がいた。彼らの「心配の種」は宇宙人。そして今彼らはある場所に居座り心配の種を取り除こうとしているらしいが、居座られた地域の住民の「心配の種」になっているのも、笑えない事実だ。
今現在、この瞬間も「心配の種」は生まれて、又、消えていく。いつもよりは夜更かしして、このブログを読み始めた“あなた”・・・『明日の朝、目が覚めるかな?寝過ごしてしまわないだろうか』と、チラッとでも考えた、としたら、それが「心配の種」なのだ。『やっぱり、寝よう!こんなくだらないブログはお断り!』で寝てしまえば、一瞬にして「心配の種」は消えてしまう。
心配の種を沢山抱えている人、失礼だが殆んどはこの類の種だと思える。思考の切替一つで半数以上の心配事から開放されるだろう。
一般的に大多数の人が持っている心配の種は、自分自身の先行きに対すること。即ち病気や怪我などにならないかの心配、仕事上で或いは付き合いの上で失敗しないだろうか、嫌われないだろうか、損をしないだろうか、騙されないだろうか、裏切られないだろうか・・その他諸々、これから自分自身が行おうとしている行為(或いは選択・決断・環境・・)の結果、生み出されるかもしれない「悪い結末・結果」を心配することである。
これは人によって様々だ、年齢・性別によっても違いが出る。自身満々、心配など微塵も感じない人も、ヒョットすればいるかも知れない。他人から見て、なぜ、そこまで心配しなければならないの?と思われるほど、慎重で神経質な人もいるだろう、千差万別だ。
次に自分自身以外のものに起因する「心配の種」
親が子を、子が親を心配すること、妻と夫、兄弟姉妹、恋人、友人、教師と教え子、同僚・・・・身近に存在する相手に対しての心配事。
犯罪、交通事故、市政・国政、教育、軍事、外交、社会情勢に対する心配事。
最近では中国からの輸入食品や、偽装牛肉事件、悪化するアフガン・イラク・パレスチナの問題等、テレビやインターネットの普及で情報は日夜溢れ返っている。朝目覚めれば「心配の種」が待ち受けている状況だ。
心配の種は、無限にあるということだ。
(心配事をどう処理するか)
私のブログタイトルは「なんとかなるさ」にしている。少し荒っぽいが、これが私の「哲学」である。
60年の人生で、文字通り「なんとかなるさ」 “なんとかなってきた” のである。そのなんとかなった歴史の上に今日の私が存在している分けだ。
幼い時に大病を患い30歳まで生きられるのか?という両親の「心配の種」だった私は、現在病気一つすることなく、満員電車に揺られて会社へ通っている。(皆勤賞である)
妻が最も「心配の種」として、長らく抱えていた娘の結婚。婚約から半年足らずの今年3月アッと言う間に結婚披露宴・・・「心配の種」は一瞬にして消えた。
団塊の世代、老後はどうなる??が友人知人の「心配の種」・・反対に何も心配してない「なんとかなるさ」の私は、特に大きな働きもせず、永年勤務した今の会社に「嘱託」として再就職、毎日若い社員と「馬鹿話」をしながら楽しく働いている。
以上の3点だけでも、私にとってはなんの心配もせずに迎えた「なんとかなるさ現象」なのである。「心配するだけ損」「心配してもしようがない」「心配してもしなくても、なるようになる」
「心配でたまりません・・」というより「心配するな!」の生き方を選んで間違っていなかった、と今も思ってる。ただ若干反省するのは、この生き様で周囲の人間に大いなる「心配の種」をばら撒いたことであろうか。
ブログを覗いてくれてる「あなた」・・なにか、心配事ってあります?
『大有りだ!!』と、言う方もいるかも知れないよね、でも、ほんとうに心配するようなことか・・一度冷静に客観的に判断すべき、だと、オジサンは思うね。
心配する、と言うことは、心を悩ますこと。言えばストレスを生み出すということだ。ストレスによって生じる疾病や悪環境は深刻だ。オジサンはその辺を「心配」するね(笑)
「なにも心配するな!」などとは言えない。自分自身にとって未知で未経験の事象には心配することもある。心配=危機及び危険に対する備え。と定義すれば、「心配事」も重要な感覚であるとも言える。しかしあまりにも心配しすぎることも、問題だ。
個人によって様々な生き方や考え方があるから、これが正解!というような方式はない。しかし、ハウツー的にいうなら、「心配事」の分類をすればよい。
心配事を自分自身の心の中で、(大)(中)(小)と分けてみる。たとえば、『明日ビヤガーデンに行くけど雨が降らないだろうか・・』『プレゼント贈ったけど喜んでもらえるだろうか・・』シチュエイションは様々あっても、この程度の心配事は(小)・・心配するだけの価値なし。
次に(中)・・『付き合っている彼(彼女)の気持ちがつかめない・・どうすればよいか・・』『ダイエットしなければ、行く末は大病を招くかも・・』『借金が一向に減らないどうすれば・・』
解決可能な「心配事」は積極的に解決すること!結果をとやかく考えては駄目!考えたり、心配する前に行動すること!周りの目は意識しないこと、チャレンジすることが大事。できなければ「余計な心配せずに、成り行きに任せること」
(大)大きな「心配事」は、外部からのものや、自分の持って生まれた性格、環境、思考から生じる場合が多い。『親が重病で入院している』『勤め先が倒産しそうだ』『身体が思わしくない、なにか重大な病気だろうか・・』『自分の行き方はこれでいいのだろうか・・』
解決策として、私の場合は頭(心)の中でしばらく封印することにしている。ブラックボックスのような頑丈な箱をイメージして、その中に悩み事、心配事を入れて鍵をしてしまう。少し訓練すればできるようになる。一定期間(自分で決めて)開かないようにする。解りやすくいえば鍵をかけている間はそのことに思いを馳せない、忘れてしまうという事ではなく、少し横に置いておく、と言うことだ。何ヶ月か何年か先に、ブラックボックスを開けたら、「影も形も無くなっていた」ということが往々にしてある。(心配した事が馬鹿らしくなる)
COCKPIT VOICE RECORDER
一昨年、昨年と続けて同じような病状で、母と義母(妻の母)を亡くした。それぞれ長期の入院だったので最初のうちは「心配で心配で」ノイローゼになるのではないか、と思ったこともある。電話の呼び出し音にドキッ!としたことも、1回や2回ではない。そのうち封印の方式を取った。夜もグッスリ眠るようになり、仕事もはかどった。その時は1週間区切りで「鍵」の開け閉めをした。今思い返せば、程よい自己コントロールが出来た、と満足している。
要は、心の持ち方と自己コントロールができるかどうかの話で、自分で自分を追い詰めてはいけない、ということである。
◎ それと、これは哲学というより若い方へのアドバイスだが、心配の種を少なくしたいと考えたら、よりよき友達(同姓のほうがいい・異性だと余分な心配の種が生まれる)を創るべき。何かを始めよう、何かにチャレンジしようと思う時、それを理解して見守ってくれる友人がいれば「心配の種」は驚くほど少なくなる。
めんどうくさい!と思う方は、
イボイノシシの「なんとかなるさ」
<くよくよ考えても仕方が無い、なるようになればいい!それから考える>
を実践してくれればよい。
世の中、なんとかなるのである。
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台風4号上陸 2007年7月14日
http://mahalotaka.exblog.jp/5789731/
2007-07-14T09:50:00+09:00
2007-07-14T13:10:27+09:00
2007-07-13T16:30:07+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
台風が好きやねん!!
といっても、イボイノシシが子供時代(ウリ坊)の話、半世紀も前のこと。今そんなことを言えばヒンシュクものだ、被害に遭われた方にも大変失礼だ。
小学生の頃は姫路市の中途半端な田舎町で暮らしていた。周りを水田に囲まれて、自宅の窓から海と山が同時にみえるほど見通しがよかった。勿論姫路城も手に取るように見えた。現在その場所へ行ってみると建物が密集して、全く周囲の景色(自然)が見えない。
ラジオで台風情報を聞いた父親が、板切れで窓や出入り口を補強する作業を始めるとワクワクしたものだ。それほどの準備をする時は必ず学校が休校となる。台風が通過した後、空はカラリと晴れ上がり吹き戻しの風が心地よい。当時どこの家にもエアコンなど無かったから、子供たちは大喜びで蒸し暑い自宅から飛び出してくる。
手に手にバケツや魚取りの網などを携えて、冠水した道路上を走り回る。
田んぼの用水路から溢れた雨水が道路上を流れる。だだっ広い平地だから土砂崩れや鉄砲水の心配はまったくなかった。
台風の後片付けをしながら大人たちの目は微笑んでいた。「しっかり頑張って、晩のおかずとってこいよ!」などと、大声を出すおじさんもいた。
子供たちのお目当ては、用水路から溢れた水の中を泳ぐ「フナ」や「鯉」それに「ドジョウ」や「なまず」などである。
中学生くらいの子は、バケツ一杯くらいの成果をあげるツワモノもいた。まるで海のようになった家の周りを水しぶきをあげながら、魚を追って走り回る1日は至極の幸福感を感じたものだ。
勿論、当時も場所によっては悲惨な被害も起きていただろうが、小学生には知るよしもなかった。幸い周辺で大きな台風被害や怪我人などが出たという記憶は無い。用水路や溜池の周囲には、柳の木や桜が植えられていて「ここから先は危険だよ」という、目印になっていたし、年上の子が小さい子供たちの面倒を良く観ていた。
【イボイノシシからのご注意】 現在の用水路や側溝はコンクリートで固められ、一度増水するとその位置や状況は全くつかめません、又深くて流水の勢いも強いので、近づくのは大変危険です。50年前とは世界がちがいますので、くれぐれもご用心願います。
TYPHOON Man-yi ところで、今回の台風4号の名前をご存知だろうか、2000年1月から日本周辺の台風に「アジア名」という名前がつけられるようになった。それまでは米国の海・空軍合同台風警報センター(JTWC)が、ハリケーンなどと同じように、英語のファーストネーム(男女名交互)をつけていた。「ジェーン・台風」や「キャサリン・台風」などを記憶している。
今回の台風4号は、「Man-yi マンニイ」と命名されている、海峡の名前で、香港のリストから選ばれたTYPHOON NAMEだ。(怖あ~い!なんとか太后みたいなイメージ)
アジア名は北朝鮮を含むアジア各国と地域がそれぞれ10個ずつ、全部で140個の名前が登録されている。
(1997年に香港で行われた、ESCAP’/WMO台風委員会で決定された)
ちなみに、日本の場合は星座名で登録をしている。「テンビン(天秤座)」「ヤギ(山羊座)」などがある。中国は「Wukong ウーコン(孫悟空)」 ラオス「Xangsane シャンセン(象)」 北朝鮮「Kirogi キロギー(かり・雁)」 マカオ「Chanchu チャンチー(真珠)」等がある。
マンニイのドレスの裾でいたぶられる、六甲山と甲山
とにかく大きな被害なく、マンニイが過ぎ去るのを待ちましょう。]]>
イボイノシシの道草・北新地(2)
http://mahalotaka.exblog.jp/5737227/
2007-07-12T09:16:00+09:00
2007-07-12T09:15:09+09:00
2007-07-04T20:40:01+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
北新地 POCO A POCO のマスターが 弾き語りをしてくれました。
踊りつかれた ディスコの帰り
これで青春もおわりかなと呟いて
あなたの肩を眺めながら
痩せたなと思ったら泣けてきた
大阪で生まれた女やさかい 大阪の町よう捨てん
大阪で生まれた女やさかい 東京へはようついて行かん
踊り疲れた ディスコの帰り
電信柱に染み付いた夜
辿り着いたら 一人の部屋
裸電球を点けたけどまた消して
あなたの顔を思い出しながら
終わりかなと思ったら泣けてきた
新地本通りを御堂筋に抜けたところで、青年も歌ってくれました。
大阪で生まれた女やけど 大阪の町を出よう
大阪で生まれた女やけど あなたについて行こうと決めた
辿り着いたら一人の部屋
青春に心を震わせた部屋
大阪で生まれた女が今日 大阪を後にするけど
大阪は今日も活気に溢れ またどこからか人が来る
振り返ると そこは灰色の町
青春のかけらを 置き忘れた町
青春のかけらを 置き忘れた町
作詞/作曲 BORO
1974年(昭和54年)
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スローダウンします。 2007年7月1日
http://mahalotaka.exblog.jp/5719438/
2007-07-02T00:02:00+09:00
2007-07-02T00:04:27+09:00
2007-07-01T22:06:13+09:00
mahalotakashi
mahalo@哲学
いつも訪問していただいてありがとうございます。
支離滅裂、思いつき、付和雷同、行き当たりばったりの、イボイノシシ・ブログ。
最近特に中身が無い記事が増えてきたように自分自身で思い始めました。当初、娘から「大いなる遺言」として、自分自身や家族、特に孫たちが後々「ジイチャンの生き様」を伝えるために始めたら・・と薦められてキーボードを叩き始めたのだけれど、日に日に増える訪問者の数に舞い上がってしまい、ブログ本来の目的(私自信の)を忘れてしまい、人の目を余りにも意識し過ぎて、安物の小説家のように、ただただ締め切りに間に合わせるためがごとく、おざなりの写真貼り付けブログになってしまったような、薄っぺらさを感じ始めるようになりました。
今日、娘夫婦に誘われて芦屋のベルポート(ヨットハーバー)で昼食を共にしました。美味しいフランス料理、ワインを飲みながら久しぶりの会話が弾みました。夏休みと秋に旅行でもしようか・・新家庭の様子はどう・・
誰が言うともなしに、『今日はブログ用の写真は撮らないの?』
別に皮肉でも嫌味でもないのだろうけど、結構グサリときた。そういえば会社でも昼休みはパソコンの前に座りっぱなし、若い連中や同僚と話をすることもめっきり少なくなりました。
初心に戻ろう。
ブログ自体をを編集したり、写真を撮り、文章を考え、投稿することは特に苦にならない。というより、楽しいし愉快、完全に趣味の一角を占めています。
これからも脳と指先が健全に動く限りは続けて行くつもり。ただあまりにも偏る或いは熱中し過ぎにならぬよう、この辺で一度速度を緩めようと思った次第です。
イノシシ年でA型の宿命
団塊の世代を代表する亥年生まれの宿命か、それともA型の血液のなせる業か、どうも猪突猛進型、走り出したら止まらない、熱中し過ぎて我を忘れるタイプなので、いつか誰かに迷惑をかけないとは言い切れない。
そんなわけで、今月のブログから少し抑え目(控え目)に進めて行くことにしました。できるだけ毎日更新はしたいと思いますが「無理やりにでも・・・」というようなことはやめます。それより自分の日々の生き方や感想、感動したことや楽しい出来事を中心に、ゆっくり・のんびりブログを継続したいと思います。
記事の中身自体に特に大きな変化はありません「灘五郷やノラ猫、イボイノシシの道草」等、今後も継続して行きます。
これからもヨロシクお願いします。
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